(no title)
明日(今日)は一日、大量補給の日。
朝からたっぷり体操して、
たっぷり瞑想して、
某カフェでグリーンスムージーを摂り、
某レストランで早めのお昼をいただいて
然るのち事務所に行き、
本を読んで、
原稿をして、
また本を読んで、
原稿をして、
解説を依頼された
ソダーバーグの映画を観て
また本を読んで……
それでたぶん夜9時(かな?)、一日が終了……
いやいや、それから
がんばろぉ…
今日買ったピンク・タイ♫
明日(今日)は一日、大量補給の日。
朝からたっぷり体操して、
たっぷり瞑想して、
某カフェでグリーンスムージーを摂り、
某レストランで早めのお昼をいただいて
然るのち事務所に行き、
本を読んで、
原稿をして、
また本を読んで、
原稿をして、
解説を依頼された
ソダーバーグの映画を観て
また本を読んで……
それでたぶん夜9時(かな?)、一日が終了……
いやいや、それから
がんばろぉ…
今日買ったピンク・タイ♫
過去は、否定しなければ、しだいに過ぎ去り、身にまとわりつくことはない。
心がもし穏やかで澄んでいれば、過去はほぼ自然力学に近い、無害な存在と言えるだろう。
場に入ること、場にいること。
そのためには「その場に先んじた人」から、祝福される必要がある。
人が「目に見えない力」を持っているとすれば、その最高の力が、
「迎え入れる力」だ。
これは心理学的に言えば「承認する力」であり、
宗教民俗学的に言えば(おそらく)「祝福する力」だろう。
この科学かぶれの時代においても、人はこれなしで生きていくことはできない。
お互いがお互いを無視する職場、そしりあうチーム、目を合わせない人間関係に、決して未来は訪れない。
日々祝福し合うこと、それが初めて見るような、しかし確実な生き方につながるだろう。
この間ツイッターに
人間の意識の幻灯機は、前に向いていないと、見る見るうちに妄想城を自分の周り一面に築きだす。特に居場所取りに関しては。
なぜなら居場所ほどの幻想はないからだ。かくして他人にウェルカムでない文化は、瞬時に被害妄想の社会を出現させる。
や、
人間の想像力が、他人にとって安心できる場所も、他人がいたたまれなくなる場所をも作り出す。
とも書いた。
人間の前意識(普段はあまり気づかないが、注意深く感覚すれば認識できる層の意識)には、いくつかの感情が固着している。たとえば、絶望感の背景には、やる気のなさがあり、やる気のなさの奥には自己嫌悪がくっついている、というように。
ではその自己嫌悪はどこにつながっているかというと、これが意外に「居場所感覚の喪失」、つまり「場」の喪失感だったりするのだ。
瞑想は、そうやって失われた居場所感を劇的に補完する方法のひとつといえる。ただし、すべての瞑想が居場所感を補完してくれるわけではない。「加持」あるいは「入我我入」と空海が呼んだ方法論の中におそらく解答の一つがある。このあたりは、また詳しくメルマガ等で解明したい。
昨夜はEテレ・Rの法則を終えて、山芋と豆乳ヨーグルトだけ食べて寝たのだが、5時間半後にパッチリ目が覚めて眠れない。
ちょうどよいので、そのまま起き出して座って瞑想。そのあと30分ほど仮眠して再び起床。
足助体操を五つほどして水浴び。おかげで完全に身体が起きて気分がよい。
これからJA横浜で講演致します。
秋のタイを買いました。どうでしょう。
瞬間瞬間に、得心すること。
現代人は何かをする瞬間の中に、逃げや投げ出しが含まれていることがとても多い。
構造改革よりも前にやるべきことは、「瞬間」の改革なのだ。