『驚く力』発見(笑)
大阪ジュンク堂で、内田先生、鷲田先生の隣にありました ^ – ^
これから、ちちんぷいぷい。
この間ツイッターに
人間の意識の幻灯機は、前に向いていないと、見る見るうちに妄想城を自分の周り一面に築きだす。特に居場所取りに関しては。
なぜなら居場所ほどの幻想はないからだ。かくして他人にウェルカムでない文化は、瞬時に被害妄想の社会を出現させる。
や、
人間の想像力が、他人にとって安心できる場所も、他人がいたたまれなくなる場所をも作り出す。
とも書いた。
人間の前意識(普段はあまり気づかないが、注意深く感覚すれば認識できる層の意識)には、いくつかの感情が固着している。たとえば、絶望感の背景には、やる気のなさがあり、やる気のなさの奥には自己嫌悪がくっついている、というように。
ではその自己嫌悪はどこにつながっているかというと、これが意外に「居場所感覚の喪失」、つまり「場」の喪失感だったりするのだ。
瞑想は、そうやって失われた居場所感を劇的に補完する方法のひとつといえる。ただし、すべての瞑想が居場所感を補完してくれるわけではない。「加持」あるいは「入我我入」と空海が呼んだ方法論の中におそらく解答の一つがある。このあたりは、また詳しくメルマガ等で解明したい。
昨夜はEテレ・Rの法則を終えて、山芋と豆乳ヨーグルトだけ食べて寝たのだが、5時間半後にパッチリ目が覚めて眠れない。
ちょうどよいので、そのまま起き出して座って瞑想。そのあと30分ほど仮眠して再び起床。
足助体操を五つほどして水浴び。おかげで完全に身体が起きて気分がよい。
これからJA横浜で講演致します。
秋のタイを買いました。どうでしょう。
瞬間瞬間に、得心すること。
現代人は何かをする瞬間の中に、逃げや投げ出しが含まれていることがとても多い。
構造改革よりも前にやるべきことは、「瞬間」の改革なのだ。
昨夜はダン先生から、名詞を軸に物事を構築するのをやめ、動詞を基にやっていくというお話を話を聞いた。
僕は何日か前に、人間との付き合いは、「構造」や「関係」ではなく、ダンスとして捉えることはできないか、とつぶやいていた。ダンスというのは名詞だが、動詞的な名詞である。
そういった自分自身の思考もあったからだろう、ダン先生のお話には深く納得するところがあった。