ベジプレート!
ポンのあと、二つ取材をうけて、UNIQLOで防風ジーンズの新製品を買い、昼夜兼用のベジタブルプレートをオーダーしたら、このボリューム!!
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福岡名越康文塾を終え、
ホテルで北見名物の塩焼きそばを一年ぶりに食す。旨い。
明日はこちらの講演です。
2013年10月27日(日)10:00~11:50、北海道北見市「北見市民会館大ホール」(〒090-0817 北海道北見市常盤町2-1-10)にて、講演「こころとココロをつなぐコミュニケーション術」を行います。
詳細はこちらをご覧ください。
http://www.city.kitami.lg.jp/docs/2013092700039/
なお、会場にて新刊『驚く力』の北見市の書店「ブックキャビン」(北海道北見市北3条西2丁目16 tel.0157-33-1653)による販売&サイン会を予定しています。
※ブックキャビンでも『驚く力』販売しております。お近くの方はぜひおいでください!
この頃、私のごひいきの苦いスムージーを出してくれる○
本当に単純なのですが、こいつをいい気分にさせておきたいなら、
でもこの頃分かるようになってきましたが、私にしても、
プロレス好きの人とか、ホラー映画好きの人とか、
でもこの世で一番好きな映画は『羊たちの沈黙』だったりする。
あれれ、ずいぶん話が飛びました。
そうそう、私にはこれを聴いてたら幸せ、という音楽がある。
あ、お話を進めたいのですが、大好きなアレサ・
『獣電戦隊キョウリュウジャー』の歌詞のサビに、いまだにグッとくる。
♪ほんとの強さは いったい どこにあると言うのだろう?
地球儀を回すよりも こころの中を探せ
……どうですか? ヒーロー物の歌詞に突然登場するこのセリフ。不意打ちの快感です。
さらに、「世界(地球上)を探すよりも」とせずに「地球儀を回すよりも」としたところもすごい。 「地球儀を回す」という動作を空想させた瞬間、その「意味」そのものが入ってくる。なんともセンスがいいですね!
※『獣電戦隊キョウリュウジャー』
http://www.tv-asahi.co.jp/kyouryu/
※獣電戦隊キョウリュウジャー主題歌『VAMOLA! キョウリュウジャー』の歌詞はこちらでご覧いただけます!
http://mojim.com/twy118940x1x1.htm
松屋銀座一階で、アダム・ウェストンに会って来ました!
アダム・ウェストンさんは、熱中時間に出演していただいたことのある画家。
今日(10/15)まで、松屋銀座で作品を展示されています。
11月には大阪での展示もあるもようです。
生命のような絵だね。
ウェストンさんの絵に触れると、真実というのは主観を越えた個人の確信からこの世界に露わになる、ということに気づかされます。
松屋銀座にて、数年ぶりにご本人にお会いしてお話を伺うと、やはり「何か大きなものにアクセスしている感覚」が、すごくリアルにある、ということをお話されていました。
ウェストンさんからすれば「なぜみんなこのことに気づいてもらえないのだろうか」ともどかしいくらい、彼の内側にはその感覚と、感覚に対する確信があった、ということのようです。そして50歳を迎え、もうそれを世に問わなければならないと決心されたようです。
私には彼の絵は、生命が生命という形を完全にとる直前の<炸裂>のようにも感じました。これは仏教でいうところの「本不生」ともつながるのかもしれない。本不生とは、生まれず、出でず、なおかつ生まれる命の本源であること。
ご縁のある方はぜひ。
本音、タテマエ、空気。
私たちの言論を支配する力にもいろいろあるが、日本では、瞬間風速としては「空気」が最も支配的な存在だろう。
よく「あの時はそのことを言える空気ではなかった」などと言うが、確かに日本における、そうした「言えない感」の強さは半端ではない。
日本において圧倒的に言論を支配している力は空気である。
そして、その空気の本質は、「言えない」ということ。すなわちタブーである。
日本人は現実が幻想の上に作られていることを、どこかで直感している。
幻想であるから、あるバランスが崩れると日本人の現実というのは、ものの見事に消失する。
だからこそ我々は、侵してはならないタブー=空気を、最上位の規範とするのだ。
しかし、空気は必ずしも硬直した抑圧や長期の専制支配のような頑強なものとは比較にならないくらい、もろいものでもある。
なぜなら空気というものは、ある日、ある瞬間に変わるからである。
空気というものが持つこの特徴を、我々は熟知しておく必要がある。
「空気はやがて必ず変わる」
だからそれを読みこそすれ、呑み込まれてはならないのだ。
生きることをただ肯定する思想と、
生きることをはなから肯定する思想に対して、私は昔から生理的な嫌悪感を持っていた。
うわべの肯定には、弱さと独善とが同居していると私は思う。
私は、”群れている集団”には近づかない。それらの集団は、弱さと独善の集積地であり、
本当の意味で「生きること」を肯定したいのであれば、まずは個に戻るしかない。生を真に肯定する人のほとんどが、
論理を超えた知は、必ずしも「論理で説明できない」わけではない。
論理でも説明可能なのだが、説明しただけではその「知」の本来の目的である、人間の認識や価値観の変容が起きないような知のことを「論理を超えた知」というのだ。
つまり知の本質とは、変容であり、度重なる脱皮である。