喜びの感情
喜びの感情は喜びそのものではない。
喜びに付随する「何か」に過ぎない。
ゆめゆめ、忘るべからず!!(笑)
篠栗巡りをさせていただいて、いよいよ名越式仏教心理学の本筋の森に分け入る感じになって来ました(笑)
まずは、誰もが聴いたことのある仏教の常套句から、その文言成立のワケをいろいろ分析して行こうかと思います。
そうですね……相愛大学と名越塾で“初めを始める”ことになると思います。
私の考えでは、仏教の経文や論理は、きわめて実践的に書かれているのだと思います。
しかし、言葉には限界があります。つまり言葉は、経験自体を記録することは出来ないのです。
ですから読み解く際には、自らの経験といったん距離をとり、なるたけ客観視しなければなりません。
そうすることで私たちは、目の前の文言を、まさに「常套句として読み飛ばす」という軽薄さから解放されて行くはずなのです。
篠栗88箇所のすべての朱印ですね。ニノ滝寺にて。夜18時からクリエイト篠栗大ホールで講演します。
篠栗ニノ滝寺。
講演前に八木山地蔵とうふ店の豆乳ソフト。
金剛界と胎蔵界の二つの曼荼羅、二つの宇宙観をきちんと統合したのは、おそらく空海が初めてである。
これを左脳と右脳、あるいは男性性と女性性、と捉えることは、(あくまでそのレベルの範囲内ということを弁えているかぎりにおいて)有益だろう。
この宇宙観は実は、極めてユニークなものだ。注意しなければいけないのは、この二つの世界を、智慧(理性)と慈悲(愛)と捉えてしまうこと。そうとらえた瞬間、私たちは思考停止に陥る。すなわち「分かった気」になってしまうのだ。
例えば、金剛界と胎蔵界の二つの曼荼羅に描かれている神仏の配置をみれば、金剛界は悟り(成長)の段階、つまり生命や存在の時系列を、胎蔵界はあらゆる衆生の仏性のいわば濃淡(波紋)を表現している。
つまり「方向性を持つ運動」と、「波のように戯れるような運動」が等価であり、同じ現象を現している。そういう宇宙観なのだ。どうも言葉にすると薄っぺらいが、これはとても面白くダイナミックな考え方であり、そう簡単に「分かった気」になれるような代物ではない、ということは確かだと思う。
「自信とは何ですか?」
といいったことを今さら聞かれることがあります。
そういうときはそろそろ、自分のレベルなりに、真面目に答えるようにしています。
で、今の私のレベルにおける答えは、
“違和感のないこと”
であります。
そういう意味では、私の考えでは、「自分」と「自信」 とは、ほとんど関係がありません。
だから「自信をつける」という言い方も、たいへん不適切なものに思えるのです。
なぜなら、自信とは、その場限りのものだから。
とはいえ、「自信」という限り、一回こっきり、その場かぎりのものだと言ってしまうと、それはそれで「そんなのはまぐれと変わらないではないか」、というそしりも免れないかもしれません。
ということで、「自信をつける」ということを私なりに整理すると、
1)「違和感」という感覚を磨き続け、
かつ、
2)それが消失する方法を身につけてゆく、
ということになるのです。
シューイチ終わって、スタバでソイラテ,アイスなし豆乳多め^ – ^
子どもは尊敬しないと逆襲してくる。だから息が抜けない。
子どもが大人に教えてくれることの第一は、「人は敬意が基本」ということ。
大人は別の社会を作ってしまった。でも生命の基本は変わらない。
※来月10月27日(日)、北海道は北見市の「北見市民会館大ホール」にて講演を行うことになりました!
お近くの方はぜひお越しください!
http://maesaya.blog.ocn.ne.jp/natyu/2013/08/post_f4fa.html