【コラム】「安先生」のことーー「心の傷を癒すということ」ドラマ化に寄せて(名越康文メールマガジンからの抜粋)


 

1/18(土)から、NHKでドラマ「心の傷を癒すということ」の放送が始りました。

 

https://www.nhk.or.jp/drama/dodra/kokoro/

 

主演に柄本佑さん、共演に尾野真千子、濱田岳、森山直太朗……と錚々たる顔ぶれのドラマの原作『心の傷を癒すということ』(安克昌)の増補改訂版がこのたび、作品社から発行されることとなりました。

 

『新増補版 心の傷を癒すということ: 大災害と心のケア』

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安 克昌 (著)


 

僕は、安克昌の友人として、この本に寄稿をさせていただきました。僕と安先生との関係についてはこちらの動画

 

畏友・安克昌と3本のカセットテープを録音した夜の話(名越康文TVシークレットトーク無料公開版)

 

 

でもお話しした通りです。今回、版元の作品社様から、拙文の掲載許可をいただきましたので、メルマガ読者の皆様に向けて転載します。

 

もしよろしければ、本やドラマも、ぜひご覧になってください。

 

 

 

 

「安先生」のこと

名越康文

 

この書籍は、どちらかというと精神科医が科学的な専門性に則って、あの震災からの人々の心の軌跡を記述することを旨とするものだろう。であるから、以下の私の書き出しに多くの方が違和感を持つのでは無いか、そう思う。読み出される前に、予めそうお断りする無礼をどうかお許し願いたい。

 

長年意識せず生きてきたことだが、認めざるを得ないことがある。それは私が宗教的な人間だということだ。爪から先も模範的な人間ではないし、哲学的な人間だと言うつもりもないのだが、宗教的な人間であることは否定のしようがない。それを思い知ったことがある。

 

安先生(我々は大学時代からなぜか互いを先生と呼び合っていたので、書き出しは我々の慣例に従いたいと思う)が亡くなって直ぐの年明けのある朝、当時教壇に立っていた柔道整復師養成の専門学校に向かう単線列車に乗って、麦が刈られた後の畑が何キロも続く冬の野辺をぼんやり車窓から眺めていた。突然、視野の光度が全体的にクワッと上がり、その視野の中の全てに人の気配がしたのだった。私はそれが誰なのか即座に理解した。

 

今から考えると実に奇妙な経験だったが、なぜかその中で私は落ち着いており、車窓から風景を固まったように見ている自分の身体の中で深く寛いでいた。そしてその柔らかな衝撃が一分ほど続いた後で、ごくしぜんに感謝のような感情が溢れ出し、全身に鳥肌が立ったのだった。人が死ぬとはこういうことなのだ、と思った。

 

 

■「安先生」との出会い

 

彼と出会ったのは中学二年だったと記憶している。私は田舎の小学校から大阪の中高一貫私学に入学して、たった一年半の間に絶望的なほどクラスメートから学力を引き離されてしまっていた。表面的には明るく振る舞っていたが、自意識自体は地に落ちて潰れた果実のようになっていた頃だったと思う。

 

秋の初め、学園祭(スクール・フェア)である展示を見ていた時に、私の友人と連れだって立ち寄った見知らぬ生徒がいた。少し前屈みの自分よりは幾分小柄で、痩せてはいるが筋肉質の、そしてそれ以上に何かが鋭利に削ぎ落とされているような静かな殺気に満ちた生徒だった。にこやかで控え目なそぶりの後ろ側に、ピリピリとしたやり過ごせない気配があったことを覚えている。

 

その見知らぬ同級生はおもむろに、他校の不良学生はどのような喧嘩の仕方をするのかを身振りを交えて説明し始めた。そうして自らの学生服を袖を通さずに両肩だけで引っ掛けるように着て、そのまま上半身を勢いをつけてブンと回旋させたのだった。次の瞬間、両袖がまるで鞭のようにしなって弧を描き、袖の金ボタンが私のこめかみにバチッとぶち当たった。あまりの衝撃に目から火が出たのを覚えている。痛さでしゃがみ込んだ私を見下ろした彼はニヤリと不敵な笑みを浮かべて、「痛いやろ」と呟いたのだった。

 

その後、自分がどのように振る舞ったのかは、未だに思い出せない。しかしなぜか彼、安克昌と私はその日から友人になった。たぶんその孤立した雰囲気が私のそれと同質の何かだったのだと思う。

 

 

■学生時代の語らいは、もっぱら漫画と音楽だった

 

彼と私が実際に同じクラスであったことは、中・高で二回ほどだったのではないかと思う。クラスというものは今も昔も集団に馴染まぬものにとっては無用の長物だが、私はクラスの空間的な隔たりはあまり気にならず、とにかく彼と様々なことを語らい続けていた。彼は成績がいつも上位であったが、いわゆる落ちこぼれだった私を憐憫の目で見ることは無かった。

 

中高一貫進学校のヒエラルキーの中では典型的な上位と下位の二人はなぜかとてもウマがあった。彼は中学の頃から読書もよくして、小説も多く読んでいたようだが、私は小学校の頃、親に無理に小説を読まされたことの反動もあってそちらは疎かった。私はプロレスにのめり込んでいたが、彼は決してそれには足を踏み込まなかった。私も彼のジャズ好きには敬意を払いつつも踏み込まなかった。彼が広範囲な読書を日常としていた事は知っていた(大学の時には食費を削って本を買っていたらしい)。

 

大学に入ってから彼の新築なった巨大な自宅の個室の横に併設されていた専用書庫に入ったとき、二〇歳にして既にかなりの書籍が並んでいたこと覚えている。ともかくも私との語らいはもっぱら漫画と音楽だった。二人とも水木しげると石ノ森章太郎、そして手塚治虫を愛した。その中でも水木しげるの『河童の三平』と石ノ森の『サイボーグ009』『幻魔大戦』のことを語り出したら飽きることがなかった。

 

『河童の三平』については物語の登場人物たちの、物悲しい粗忽さのようなものを特別気に入っていたように思う。私の中での彼の名言の一つに「通俗である位なら低俗である方が遥かによい」というものがある。河童の三平はもちろん低俗でも通俗でもない名作だが、そうならしめている作品の品格は何かといえば、それは独特の間の抜けたような台詞回しや素朴なストーリー展開があると、私は思う。そういう幼児のような表現の率直さが水木の作品の背景に流れる魅力であり(それはもしかしたら紙芝居作家であった経歴も影響しているのかも知れない)、これはテクニックで真似をしようとしてもし切れるものではない。この一見稚拙なほど無防備で素朴な表現を、彼は深く愛した。

 

水木の作品は社会の中で上手く立ち回れない人々、取り入ったりおこぼれを頂戴できない無器用な奴らに満ちている。しかし私はそういった社会の中でどうしても損をしない事には生きていけない人々に対する共感、という風に道徳と結びつけて、彼の感受性や人となりを評することには正直幻滅を感じる。日本人は兎角道徳を持ち出して人や物事を後味良く総括しようとするが、それは一つの根源的な無関心の表れである。

 

彼は少なくともそのような単純明快で、平坦な人格とは無縁の人物であった。敢えて言えば彼は人間の矛盾に満ちた営みそのものを愛したのである。

 

『河童の三平』の気に入ったシーンを話しながら、可笑しくて堪らないという態で笑う時の彼の表情が私も好きであった。特に彼が何度も語ったシーンは、物語のエンディング辺りの一コマだった。それは意外なほど小さなコマで、主人公・三平の天敵だった化け狸の顔だけが描かれていた。三平のことを散々からかってひどい目に合わせていた化け狸だが、その後いろいろあって優しい三平の世話になり心を通わせる。物語の終局で三平が死神に連れられてあの世に旅立って行くとき、最後までそのあとを追いかけて涙を一筋流す。その狸の情けないほどしょぼくれた表情が、堪らぬほど琴線に触れている様子だった。

 

一方、石ノ森の作品を語り合う時の我々は、真剣なところがあった。石ノ森の終生のテーマは「神と人間」だった。しかも神が人間を滅ぼそうとするという圧倒的に人類に不利な物語をどう完結するか、というテーマに後半の人生をかけた作家である。

 

当然ながら天才といえど一筋縄ではいかない。このテーマに初めて挑んだ「天使篇」で『009』は中断する。我々はちょうどその頃に、秋田書店刊行の『009』に出会ったのだった。突如の断筆に、当時中学生だった我々は大きなショックを受けた。決して作品に落胆したのではない。石ノ森でさえ描けないテーマがこの世界にあるということに打ちのめされたのだった。

 

漫画家こそが我々の知的な万能感の砦であった。漫画はあらゆるものをこの世に、目前に、具現化してくれる。親から咎められようが周囲から無視されようが、漫画は裏切らなかった。その圧倒的な想像力に拍手を送っていたわれわれは、その覇者である石ノ森の断筆に絶句したのである。

 

石ノ森の爆発的な想像力でさえも届かないこの世界。何という矛盾を抱えた世界に私たちは生まれたのだろうか。しかし時を置かず、二人はもう一つの輝く鉱脈を発見した。それが『幻魔大戦』(平井和正/石ノ森章太郎)だった。しかしこの未来のSFを先取りしたような野心作も中断した。余りにも続きが読みたくて、「いつ再開されるんやろなあ」と独語気味に語った時、彼はやにわに「いやこれは無理やと思うで」と言ったことを今も憶えている。

 

石ノ森の実力をみくびったのでは決してない。人間の想像力にも限界があり、その極みまで石ノ森は行ったのだというのが彼の見解であった。ある種一神教的な世界観を柱としているこの二作において、彼の洞察は当を得ているように今も私は思う。

 

■二人のスティービー・ワンダー熱

 

音楽については、彼はクラシックも聴いていたが、ジャズに関する思い入れが強く、特にジャズ・ピアノに関する造詣が深かった。それに比すれば歌への関心はそれほどでも無かった。歌が好きで父のステレオに毎日かじりついていた私は、これなら、と満を持して彼に『キー・オブ・ライフ』(スティービー・ワンダー、一九七六年)を貸した。彼はフンという感じで、まあ名越がそこまでいうなら、と持って帰ったが、翌日には評価は一変していた。彼はそれこそ天を仰ぐような表情を浮かべて、スティービーの楽曲について情熱的に語り始めていたのだった。

 

この物事を鋭角的に斜めからえぐるような油断の無さと、少年のように真っ直ぐで誠実な気質の両極性こそ、彼の真骨頂であり、我々が親しい中にも緊張を保ち続けられた一因だったように思う。当たり障りのない通俗的なものには歯に絹を着せぬ彼だったが、二枚半組五〇〇〇円もするアルバム『キー・オブ・ライフ』は即座に購入した。その後、二人のスティービー・ワンダー熱は、彼がこの世を去るまで冷めることは無かった。

 

彼は神戸大学の医学部に、私は近畿大学に入学したのだが、大学時代も交流は続いた。というより大学時代の方がより多面的な付き合いが始まったと言えるだろう。彼はますます本の虫で、三度の飯より優先して本を買っていたが、そんな彼を私は難波にあったジャズ・スクールに誘った。ジャズ・ピアニスト川村隆賢氏の開いたジャズ・スクール「ビッグジム」には多くの音楽好きが通っていた。私はボーカル科、彼はピアノ科に通い、見る間に彼のピアノの腕は上達していった。高校時代のつらい勉学合宿の合間に、彼が気晴らしに『レディ・マドンナ』や『ザ ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』を合宿所のオルガンでよく弾いてくれたので素地はあったのだろうが、スクールでの理論の咀嚼力はさすがであった。一緒にライブを開いたこともあったと記憶している。ビッグジムにおける数々の思い出は、数え上げればキリがない。

 

ともかくも大学が違えど、毎週のように彼と会えることは無上の幸せであった。彼の新築なった実家の豪邸にも何度か泊まりに行った。泊まりに行けば必ず深夜まで語り合い、お母様に朝ご飯まで作っていただいたこともある。ある時などは夜二〇時ぐらいにどちらからともなく電話をして、その当時のお互いの悩みや、人間とは、意識とは、というやや専門的な興味に対する見解について話し続け、気づけば明け方四時を回っていた。

 

互いに申し合わせたように精神科医になった後も交流は続いた。そこで本書の舞台になる震災があった。直後に彼に連絡を取ったが、自分のマンションの周りはかなりの惨状であることを、意外なほど冷静に電話の向こうで彼は話した。それから後の彼の活躍は本書の通りである。

 

■彼と私との人生は、まだ続いているような気がしてならない

 

一九九六年、本書で彼は「サントリー学芸賞」を受賞した。心から素晴らしいことだと思ったが、なぜかどうしても連絡を取ることが出来なかった。数ヶ月経って彼が当時開業したばかりの私のクリニックに遊びに来た時、連絡を取らなかった理由を説明した。まったくの個人的なこだわりなのだが、彼が絵に描いたような模範的医師として世間にパッケージされることが、とても残念だったのだ。それは当時のまだ青臭い私にとっては、彼に対する過小評価としか映らなかったのである。

 

もちろんこれは私の浅薄な邪推に過ぎない。私からみれば彼は一人の素晴らしい精神科医であり社会人であるが、それと同時に、まさに彼の大恩師、中井久夫先生が書かれておられる通り、「それ以上の何か」なのであった。その何かを私なりに一言で言えば、アーティストであった。

 

綺羅星のような皆さんが次々に祝辞を述べられていることだろう。一人くらい敢えて述べない奴がいても良い。そう勝手に思っていた。私の弁明を聞いて彼は「ああ、だから連絡してくれへんかったんか。やっと分かった」と言った。彼に無駄な気を遣わせたことを私は詫びた。

 

その後の彼の活躍はますますめざましかった。その業績は日本精神医学史に残るものがあると確信するが、私からみれば明らかに過労であった。私は何度か開業を勧めた。地元の病院が復旧するまで、あと二年待ってくれというのが彼の答えだった。その一年後に癌が発見された。自身がエコーで偶然腫瘍を発見した過程も、彼は冷静に私に話してくれた。

 

その後ももちろん彼とは会い続けていたのだが、時系列的な記憶は混乱している。まだ私の中できちんと向き合えていないのかも知れないし、向き合う必要も無いのかも知れない。ただ神戸のライブハウス「チキン・ジョージ」でのカルメン・マキさんのライブに、彼を誘った日の夜のことは比較的鮮明に憶えている。ライブに来ておられた宗教人類学の権威、植島啓司先生との話の中で、いま何がつらいかという話題になった時、「こんな治療をしてみたら」と言われるのがつらい、と語ったことだけは憶えている。希望が苦痛だというのだ。「僕はもう向こう側の人間なので」と微笑しながら言った。彼は波打たない心を求めていた。

 

コンサートは最高だったが、流石に終盤になって疲れて目まいを起こし、私は彼をタクシーで自宅まで送った。奥様が迅速に玄関まで出てこられたので、申し訳ない気持ちで彼を託した。無理をさせたことを後悔したが、もう彼の病状は如何ともし難いところに達しているのだと、今さらながら思った。

 

二〇〇〇年一二月二日、彼は息を引き取った。私は通夜に駆けつけた。法事が終わった後も、どうしても席から立つ力が出ずに蹲るようにしている私をみつけて、お母様が声をかけてくださり、私の肩をひしと抱きしめてくださったことを、今も昨日のように憶えている。

 

彼と出会えたこと、思春期以降を共に過ごせたことを、今も奇跡のように感じることがある。

 

そして彼と私との人生は、まだ続いているような気がしてならない。私にかけがえないものを与えてくれた彼に感謝している。

 

 

*書き下ろし

 

 

名越康文メールマガジン 生きるための対話(dialogue) からの抜粋

2020年1月20日 Vol.212
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今週の目次
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01【ご案内】名越式性格分類ゼミ(通信講座版)第19次受付中!/今週のシークレットトーク

02【性格分類】10種体癖の博愛と性(名越式性格分類ゼミ公式テキストVol.9より抜粋)

03【コラム】「安先生」のことーー「心の傷を癒すということ」ドラマ化に寄せて

04【pieces of psychology】<現場に居続ける、ということ>

05【カウンセリングルーム】今週はお休みです

06精神科医の備忘録 Key of Life

・損得勘定は脆い

07講座情報・メディア出演予定

【引用・転載規定】


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