生を肯定するために


生きることをただ肯定する思想と、肯定せざるを得ない実感にもとづく思想との間には、恐らく何万キロもの差がある。

生きることをはなから肯定する思想に対して、私は昔から生理的な嫌悪感を持っていた。それは論理的な疑念というよりもむしろ、瞬間的な、生理反応といってもいいような嫌悪感であり、それは今も変わらない。

うわべの肯定には、弱さと独善とが同居していると私は思う。弱さと独善とは互いに結びついて化学反応を起こし、容易に火のような怒りや攻撃に変わる。

私は、”群れている集団”には近づかない。それらの集団は、弱さと独善の集積地であり、いわば集団心理の火薬庫のようなものだからだ。家族そのものは心から応援するが、”家族主義”を嫌う理由も、このあたりにある。

本当の意味で「生きること」を肯定したいのであれば、まずは個に戻るしかない。生を真に肯定する人のほとんどが、大きな苦悩や障害を経て成長した結果、そこに至っているという事実も、それを物語っている。苦悩は人を、個に戻す。そこからしか、生を肯定することはできないのだ。