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【一部公開】メルマガ「生きるための対話」 Vol.063<私が病院を辞めたときの話――「自発性」に耳を澄ませて>

2013年11月06日(水)10時56分34秒

名越康文メールマガジン 生きるための対話(dialogue)2013年11月4日 Vol.063<私が病院を辞めたときの話――「自発性」に耳を澄ませて/「全力を出し切る」ことが弱さを断ちきる/ほか>を配信しました。

 

http://yakan-hiko.com/nakoshi.html

 

目次は以下の通りです。

 

01 私が病院を辞めたときの話――「自発性」に耳を澄ませて「自発性」に耳を澄ませて
02 カウンセリングルーム
【Q1】<主観と客観の間に張られた糸が奏でる音楽――オードリーライブから>の感想
03 精神科医の備忘録 Key of Life
・内側の空間と先験性について考える独りラーハの時間
04 こころカフェ(18)
・「全力を出し切る」ことが弱さを断ちきる
05 講座情報・メディア出演予定
【引用・転載規定】

 

 

巻頭コラムの一部を公開します。

 

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01 │私が病院を辞めたときの話――「自発性」に耳を澄ませて
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■「自分は病院を辞めるんだ」という確信

メルマガ宛に、こんなご質問をいただきました。

>>

こんにちは。
購読を始めて一年が経ちました。
34歳・女性・会社員・独身です。
生きていくうえでのたくさんのヒントをありがとうございます。

この頃、将来の事を考えます。
この先、結婚をすれば、どんな家庭を築いているだろう?
この先も独身であれば、どこに住んでどんな生活をしているだろう?
という事です。

名越先生がいつもおっしゃっているように、「今」に集中して生きていれば、将来につながると信じていますが、将来の夢や展望、となるとまったく何も見えない現状です。

名越先生は、今こうしてご活躍されているご自身を
30代の頃に想像されていましたか?

ご回答いただければ、うれしいです。
よろしくお願い致します。

>>
いいご質問を頂いたと思います。心を落ち着ければ、自然と自発性が出てきて、自分の進むべき方向がわかる。確かに僕はそういうふうに書いていますし、講演などでも、そういう言い方をしてきたかもしれません。

ただ、これだけでは混乱してしまう人がいるのも事実でしょう。いくら「今」に集中しても、客観的にみるとまったく展望が開けない、見通しが立たない状態に置かれている人もいます(というよりも、ほとんどの場合はそうかもしれません)。

ただ心を落ち着けるだけで、具体的な先の見通しが立たないのでは仕方がないじゃないか、と。

こういう疑問に対しては、ひとつの答えとしては「そんなこといわずに、まずは心を静めることに取り組んでみてください」というものがあります。そうすればおのずとわかってきますよ……と。ただ、それだけではあまりに不親切だということもよくわかります。

今回は幸い、「名越自身が30代の頃、将来の自分をどう想像していたか?」という質問をいただいたために、僕なりにこの問題について考えることができました。キーワードは「見通し」と「自発性」です。

 

■「見通し」なんてそう簡単には立たない

 

メルマガ読者の皆さんはご存知のことと思いますが、僕は13年間精神科医として勤めていた病院を辞めて、今のクリニックを開きました。「病院勤めを辞めてクリニックを開きました」というと、世間の人は「独立なんて素敵ですね」「それだけ自信があったんですね」といわれることが多いんです。

とんでもありません。僕が病院を辞めることを決めた時点では今のようにテレビのお仕事をやっていたわけではないし、クリニック経営のことも、何も考えていなかった。辞めた後どうなるかという見通しはまったく立っていなかったんです。

ただ、僕の中には「自分は病院を辞める」という確信だけがありました。妙に観念的に思いつめたり、ストレスにさいなまれて「辞めたい!」という気持ちが募っていたり……ということはまったくなく、ただ淡々と、「自分はこの病院を辞めるんだな」という確信だけがあった。

この根拠のない<確信>を、僕は「自発性」と呼んでいます。

 

……わかりにくいですよね(笑)。もう少し、僕の経験をお話しさせていただきます。

ちょうど、病院に勤めはじめて十三年目の春先だったと思います。ふと、「あれ? 俺、病院辞めるんじゃないかな?」という思いがよぎりました。そのときは、とにかくショックでした。なぜショックかといえば、僕自身、「辞めたいなあ」なんて考えてもいなかったからです。辞めたいわけでも、辞めて何をどうしたいという展望もないのに、「辞める」ということだけが、かなりくっきりと突きつけられた。

それは、例えていうなら、これからも元気で生きて行こうと思っていたのに、健康診断で「あなたの余命は○年です」と告げられたような状況です。「病院を辞める自分」はありありとしたリアリティをもって思い描けるのに、「病院勤めを続ける自分」にはまったくリアリティがない。散歩をしてふと路地に目を向けたら自分の死体が横たわっているのを見つけた。その瞬間、「ああ、俺、死んじゃったんだ」と気づく。あたかもそんな不思議な体験をしてしまったかのような「ショック」を受けたんです。

その感覚は、夏頃になるともっと強くなりましたが、辞めた後の見通しは相変わらず何もありませんでした。食べていけるかどうかすらわからないにもかかわらず、「辞める」ことだけが決まっていく。

注意していただきたいのは、いま「決まっていく」と書いたのは、あくまで僕の内面での話で、客観的な状況はそれほど大きく変化していない、ということです。職場の環境が悪化したわけでもないし、対人関係で大きなストレスが生じたわけでもない。しかし、自分の内面では「辞める」ということだけは決まっていく。それは自分にはどうしようもない、コントロールしようもない自分の中に到来する感覚だったんです。

どこかで書いたかもしれませんが、その時期に僕は一度、桜井章一雀鬼会会長に相談に東京まで行っています。辞めるというのは自分の中でほとんど決まっていましたが、それでも僕は不安だった。だから「辞めてもやっていけますかね」と相談した。雀鬼はなかなかはっきりとは答えてくれなかったけれど、夜になって確かめるようにポツッと「……先生は丈夫だよ。やっていけるよ」といわれました。

それに背中を押されて、というわけではありませんが、僕は結局、病院を辞めることにしたんです。

 

■「自己決定」と「自発性に従う」ことは違う

 

病院を辞めることは、僕にとって清水の舞台から飛び降りるような、人生における一大決心でした。ただ、ここまで述べてきたような経緯からわかるとおり、僕には自分でそれを「決めた」「選んだ」という感覚はほとんどありません。いわゆる「自己決定」をした感覚はあまりない。

季節が巡ってきて、枯れた葉が枝から落ちるように、「辞める」という事実が自然と自分のところに舞い込んできた。それは僕にとってはショックなことではあったけれど、ほかに選びようがなかったことでもある。

こういう感覚こそが、僕の考える「自発性」です。

「自発性」というと、「自分で決める」とか「自分の中で<やるぞ!>という積極的な気持ちがわいてくる」ということをイメージされる人もおられるんですが、それは僕の考える「自発性」とは違う。それらは時には重なり合うこともあるかもしれないけれど、「自己決定」というのは基本的に、客観的な情報を判断し、自分の意志で未来を選び取るものであって、僕の考える「自発性」とは違うものなんです。

もちろん僕は誰かから「辞めろ」といわれたわけではありませんから、客観的には「自己決定」したように見えるでしょうし、その言い方でも丸っきり間違いだとはいえません。ただ、僕の感覚としては、すでに決まっていた感覚(=自発性)に従った、というほうがしっくりとくるんです。

 

■網の目の方向性を感知する

僕は、ある程度以上の長い時間軸における<人生の選択>では、こうした「自発性」を大切にしたほうがいいと考えています。なぜなら……

 

<続きはメルマガ本編をご登録の上、ご覧ください>

http://yakan-hiko.com/nakoshi.html

 

メディア情報を更新しました

2013年11月03日(日)10時38分53秒

メディア出演情報を更新しました。

また「会う(講座・イベント)」欄の単発公開講座情報を追加しました。

 

産業能率大学学園祭

2013年11月02日(土)08時44分11秒

11月10日(日)13時から、産業能率大学自由が丘キャンパスでの学園祭「自由が丘産能祭」にて講演を行います。

『大学生のための気持ちのデトックス―心がふっと軽くなる瞬間の心理学』
場所:産業能率大学2201教室
http://www.sanno.ac.jp/univ/parents/gakuensai2013_rep.html

※入場無料

 

 

メルマガ「生きるための対話」 Vol.062を配信しました!

2013年10月21日(月)12時43分25秒

名越康文メールマガジン 生きるための対話(dialogue)2013年10月21日号(Vol.062)を配信しました。

目次は以下の通り。

 

01「できる人」の時間は伸び縮みする
02 カウンセリングルーム
【Q1】「今ここ」に集中するって、どういう感覚ですか?
03【私家版】門外漢の仏教論(6)
・心を鎮めれば人生が変わる
04 精神科医の備忘録 Key of Life
・「個」に戻り、「今」を生きる
05 塾通信(44)
・怒りの制御と体癖論
06 講座情報・メディア出演予定
【引用・転載規定】

 

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01 │ 「できる人」の時間は伸び縮みする

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■時間とは「妄想」である

 

「時間がない」「時間に追われる」「自分の時間が取れない」「時間を有効に使えない」といった、<時間>にまつわる質問を受けることがよくあります。

 

そういう悩みを抱えている方がまず気をつけたほうがいいのは、そもそも「時間」を主語や、目的語にしている時点で、それはかなり妄想的な発想に陥っている可能性が高い、ということです。

 

言いかえれば、昨日、今日、明日と時間を区別すること自体が、実は妄想的だということです。「時間が……」「時間に……」ということが頭に浮かんでいる状態では、僕らは目の前のことに集中できていません。そういう悩みが生じている瞬間、その人は「時間の妄想性」に足元をすくわれているんです。

 

ただ、そうはいっても、僕らはそう簡単に時間から自由になることはできません。少なくとも現代人にとって、時間という観念(妄想)は非常に強固で、そこから解放されることは容易ではない。「時間なんて気にしない!」と心に決めただけでは、どうにもならないんです。

 

今回は、時間の捉え方を変えるひとつの方法として「時間を空間的に捉える」ということを提案してみたいと思います。時間をイメージで捉えるとき、僕らはたいてい「線」で捉えます。それを三次元的に広げ、「チューブ」のようなイメージに変えてみる。

 

左側の過去から、右側の未来に向かって、太さを伸び縮みさせながら流れていくチューブをイメージしてみる。そうすると、「横軸」の時間の流れに対して、「縦軸」や「奥行」に向かって伸び縮みするチューブの太さが、時間の「濃さ」「密度」を表すことになります。その時間が自分にとって濃密であれば時間のチューブはどんどん「太く」なり、その時間を集中して過ごすことができなければ、時間のチューブはどんどん「細く」なっていく、というわけです。

 

そうやって時間というものをとらえ直してみると、時間は決して均一ではなく、いわばウインナーソーセージのように伸び縮みしている様子がはっきりとイメージできてきます。

 

もちろん、これもひとつの妄想的な捉え方に過ぎない、ということもできます。先に述べたように、過去、現在、未来というのも妄想に過ぎないわけですから。でも、こういう「伸び縮みする時間」のイメージを描ける人は、少なくともビジネスや実務のレベルにおいては「時間の使い方が上手」になれるんです。

 

なぜかというと、「時間のチューブ」が太くなっている時間帯を上手に使うと、「細い時間帯」にがんばるのに比べて何倍、場合によっては何十倍もの仕事をこなしたり、思索を深めたりすることができるからです。読書でいえば、「細い時間帯」には、1時間かかっても5~10ページ読むのがやっとだという人が、「太い時間帯」には、100ページ以上、薄めの新書なら読み切ってしまうことすらあるぐらい、すらすらと読み進めることができる。

 

そういう「伸び縮みする、三次元的な時間」を捉えられるようになると、少しだけ、僕らは時間の呪縛から自由になれると思うんです。

 

 

■「太い時間」を上手に使うのが<時間の技法>の真髄

 

「時間のチューブ」は、必ず周期的に伸び縮みします。後で述べますが、いわゆる典型的な「うつ」状態でない限り、「太い時間」の後には必ず「細い時間」がやってくるし、「細い時間」の後には「太い時間」が待っています。

 

そういう意味では、たとえ「細い時間」に陥ってしまったとしても、そう心配することはないわけですが、問題は「細い時間」にしても「太い時間」にしても、それが10分続くのか、1時間続くのかは誰にもわからないということです。

 

 

<続きはメルマガ本編をご登録の上、ご覧ください>

http://yakan-hiko.com/nakoshi.html

 

メディア出演情報を更新しました。

2013年10月21日(月)08時00分05秒

メディア出演情報を更新しました。