先験性について
人間というものは、どこかで「先験性」ということについて考えざるをえなくなるというのが、これまでのところの私の結論なんです。
先験性というのは、例えばこういうことです。まだろくに話も聴いていないのに、そしてその対象がけっこう入り組んでいて難解なのに、既にそのものに魅了されてどんどんやりたくなる、学びたくなる、ということ。
あるいは、対象がとてもトレンディで価値があるとされているのに、話を聞いた途端に、なんだか同じことの繰り返し(自同律)と感じてとても退屈になる、とか。
良きにつけ悪しきにつけ、人間はどこかで自分が実際に経験して来た以上の歴史の流れを、無意識的に共有しています。
そして共有しているものの中で安心したり、分かち合えることを喜ぶ志向と、もうそろそろ次へ行きたい、未知のものに触れたいという志向とが同時に存在する。
この2つの異なる志向には、厳密には互いに共有する部分があり、それこそが先験性のありかなのだと思います。つまり歴史性を共有しているからこそ、先験性がある。しきたりに従うのも、反骨するのも、先験的な歴史感覚の共有がなければ、ただの惰性に流れてしまいます。
では惰性とは何か。それは個人的なレベルの感情や思考の癖や好みに流されてしまうということです。これは“個人的な”というのも忍びないぐらい、分かりやすく浅い固定観念や先入観に彩られた選択です。
そして先験性は、心が静まるに従って相対的に増える傾向が認められます。