日記(ブログ)
精神科医の備忘録~key of Life。臨床、講演、テレビ、ラジオ……精神科医の東奔西走の日々。
2013年10月09日(水)10時32分46秒
本音、タテマエ、空気。
私たちの言論を支配する力にもいろいろあるが、日本では、瞬間風速としては「空気」が最も支配的な存在だろう。
よく「あの時はそのことを言える空気ではなかった」などと言うが、確かに日本における、そうした「言えない感」の強さは半端ではない。
日本において圧倒的に言論を支配している力は空気である。
そして、その空気の本質は、「言えない」ということ。すなわちタブーである。
日本人は現実が幻想の上に作られていることを、どこかで直感している。
幻想であるから、あるバランスが崩れると日本人の現実というのは、ものの見事に消失する。
だからこそ我々は、侵してはならないタブー=空気を、最上位の規範とするのだ。
しかし、空気は必ずしも硬直した抑圧や長期の専制支配のような頑強なものとは比較にならないくらい、もろいものでもある。
なぜなら空気というものは、ある日、ある瞬間に変わるからである。
空気というものが持つこの特徴を、我々は熟知しておく必要がある。
「空気はやがて必ず変わる」
だからそれを読みこそすれ、呑み込まれてはならないのだ。
2013年10月07日(月)12時49分23秒
生きることをただ肯定する思想と、肯定せざるを得ない実感にもとづく思想との間には、恐らく何万キロもの差がある。
生きることをはなから肯定する思想に対して、私は昔から生理的な嫌悪感を持っていた。それは論理的な疑念というよりもむしろ、瞬間的な、生理反応といってもいいような嫌悪感であり、それは今も変わらない。
うわべの肯定には、弱さと独善とが同居していると私は思う。弱さと独善とは互いに結びついて化学反応を起こし、容易に火のような怒りや攻撃に変わる。
私は、”群れている集団”には近づかない。それらの集団は、弱さと独善の集積地であり、いわば集団心理の火薬庫のようなものだからだ。家族そのものは心から応援するが、”家族主義”を嫌う理由も、このあたりにある。
本当の意味で「生きること」を肯定したいのであれば、まずは個に戻るしかない。生を真に肯定する人のほとんどが、大きな苦悩や障害を経て成長した結果、そこに至っているという事実も、それを物語っている。苦悩は人を、個に戻す。そこからしか、生を肯定することはできないのだ。
2013年10月03日(木)09時39分42秒
論理を超えた知は、必ずしも「論理で説明できない」わけではない。
論理でも説明可能なのだが、説明しただけではその「知」の本来の目的である、人間の認識や価値観の変容が起きないような知のことを「論理を超えた知」というのだ。
つまり知の本質とは、変容であり、度重なる脱皮である。
2013年09月30日(月)08時14分22秒
篠栗巡りをさせていただいて、いよいよ名越式仏教心理学の本筋の森に分け入る感じになって来ました(笑)
まずは、誰もが聴いたことのある仏教の常套句から、その文言成立のワケをいろいろ分析して行こうかと思います。
そうですね……相愛大学と名越塾で“初めを始める”ことになると思います。
私の考えでは、仏教の経文や論理は、きわめて実践的に書かれているのだと思います。
しかし、言葉には限界があります。つまり言葉は、経験自体を記録することは出来ないのです。
ですから読み解く際には、自らの経験といったん距離をとり、なるたけ客観視しなければなりません。
そうすることで私たちは、目の前の文言を、まさに「常套句として読み飛ばす」という軽薄さから解放されて行くはずなのです。