文楽とトゥルトゥーガでの夕食
河内松原での講演の後、お友達が東京から文楽を見に来てくださったので国立文楽劇場で落ちあい、4時間におよぶ『伊賀越道中双六』(それでも全体のお話の後半半分)の舞台を堪能しました。
そのあと以前からお気に入りの、トゥルトゥーガさんで、いっぱい素敵なご馳走にありつきました。
おかげ様で、旅の疲れもすっかり取れ今日はこれから香川高松の講座に向かいます。皆さんもどうかお元気で。
精神科医の備忘録~key of Life。臨床、講演、テレビ、ラジオ……精神科医の東奔西走の日々。
河内松原での講演の後、お友達が東京から文楽を見に来てくださったので国立文楽劇場で落ちあい、4時間におよぶ『伊賀越道中双六』(それでも全体のお話の後半半分)の舞台を堪能しました。
そのあと以前からお気に入りの、トゥルトゥーガさんで、いっぱい素敵なご馳走にありつきました。
おかげ様で、旅の疲れもすっかり取れ今日はこれから香川高松の講座に向かいます。皆さんもどうかお元気で。
二年ぶりに着るジャケット。
去年、一昨年はまったく着れる感覚ではありませんでした。ぽいっ、という感じ。
今年はこれを着て、ブルーのシャツとニットタイで、Rの法則のビデオ撮りに参ります。
感覚や志向は循環し、それは他者とゆるやかに繋がっております。
自己の確立は瞬間瞬間のネットワークの上で、初めて可能であります。
気分がふさげば、窓を開けませう。
窓を開けたら、出掛ける準備をしませう。
あくまで私的な定義なんですが。
学ぶとは単に「知る」ことではなく、
「何かをする中で知る」ことなんです。
つまり目前の出来事の、一審級上の意識を持つときに、知る→学ぶ、への扉が拓かれる。
ですからふつうは、「知る」ことに集注している時、「学ぶ」は起こりません。
また、「学ぶ」が起きるとき、ふつう「知る」は静止しています。
なぜ知るだけでなく学ぶが必要かというと、だいたい「知る」には2つの短所があるからです。
ひとつには、「知る」は基本、一対一対応であるということ、つまり応用や一般化が効きにくい。ましてや越境した発想をもつことは遥か彼方です。
ふたつには、実は主観的でひとりよがりな了見に陥り易い。つまり知ったことを絶対と思い易い。なぜなら、「知る」が起きる時は、知ったことの前提に何があるのかまでは、興味の対象ではないからです。
ですから、少し距離をおいて広く感じとる「学ぶ」が必要になります。
ただ、この「知る」と「学ぶ」が、ほぼ同時に起こり始めることがあります。
それはほとんどが、心が静か&明るいときだと思います。
人間というものは、どこかで「先験性」ということについて考えざるをえなくなるというのが、これまでのところの私の結論なんです。
先験性というのは、例えばこういうことです。まだろくに話も聴いていないのに、そしてその対象がけっこう入り組んでいて難解なのに、既にそのものに魅了されてどんどんやりたくなる、学びたくなる、ということ。
あるいは、対象がとてもトレンディで価値があるとされているのに、話を聞いた途端に、なんだか同じことの繰り返し(自同律)と感じてとても退屈になる、とか。
良きにつけ悪しきにつけ、人間はどこかで自分が実際に経験して来た以上の歴史の流れを、無意識的に共有しています。
そして共有しているものの中で安心したり、分かち合えることを喜ぶ志向と、もうそろそろ次へ行きたい、未知のものに触れたいという志向とが同時に存在する。
この2つの異なる志向には、厳密には互いに共有する部分があり、それこそが先験性のありかなのだと思います。つまり歴史性を共有しているからこそ、先験性がある。しきたりに従うのも、反骨するのも、先験的な歴史感覚の共有がなければ、ただの惰性に流れてしまいます。
では惰性とは何か。それは個人的なレベルの感情や思考の癖や好みに流されてしまうということです。これは“個人的な”というのも忍びないぐらい、分かりやすく浅い固定観念や先入観に彩られた選択です。
そして先験性は、心が静まるに従って相対的に増える傾向が認められます。