日記(ブログ)
精神科医の備忘録~key of Life。臨床、講演、テレビ、ラジオ……精神科医の東奔西走の日々。
2014年04月30日(水)11時41分15秒
感情というのは衣服のようなものだが、脱ぐのに少々手間がかかる。
未熟さは寂しさに直結しているし、寂しさは怒りに火をつけるだろう。
今日という一日の最後の瞬間を感情によって台無しにしてしまったとしても、次の日にまた生きて目を覚ますとすれば、それは我々がまだ可能性の中にいるということだ。
「次の瞬間」には常に新鮮な時間が出現しているのだから。
そして生命の夢とはおそらく、そうした生命の宿業を越えることなのだろう。諦めてはならない。
2014年04月17日(木)11時06分42秒
僕は宗教を心理学的に構造分析することは有益だと思います。ただしその際、次に上げるような三段階の学びのプロセスのループを、一つの鋳型として想定すると良いと思っています。
まずシンプルな入り口から入り、複雑な構造を経て、再び単純な言語化に戻る。この三段階の経路です。このループを繰り返し、理解と実践の深まりを促し、主観や思い込みの是正を図ります。
少し難解な理屈や言語を使うことは、それまでの自分の理解の枠を取り外すためには必要なものです。「わかりやすく」もほどほどにしなくては、取り組む物事によっては年月を無駄にしてしまうでしょう。
書物は人の意識集中を渇望しています。それに応える時、人は変容し始める。あまり読書とは自ら繭に入り、羽化を夢見る行為なのです。
文字は情報に過ぎないということは真実ですが、文字や言葉、あるいは書物というものの本質は、その情報の奥にある「隠れた情報」にこそあります。言葉、文字、文脈……それらをまず表面的な意味として共有すること。そしてしかる後に、隠れた意味という内的感覚の世界を探ること。
それを希求する動きを止めてはいけません。生が尽きるその時までは。
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2014年04月05日(土)06時28分03秒
特定の価値を絶対視するような勝ち誇った態度が、いつの時代も最も古い(ダサい)考え方だと思う。たとえその対象が最先端であっても同じことだ。愚かさを改めることができるのは「自分は愚かである」という高性能な知力だけであり、その矛盾をこの世の摂理と認め、生きるしかない。
多くの人は、物事を自分で考えていると信じている。しかしおおよそそれは他人の口癖のようなものであり、書物で読み知ったことでさえない。世界や事象は多様性に満ちているが、言語は単線的である。つまり言説を批判することほど容易なものはない。だからこそ、非凡な批判はとても重要なのだ。
日常の多くは、自己の思い込みで構成されているということに思いを馳せ、世界への親しみを取り戻すことだけが、現実とのかけ橋になるだろう。
2014年03月20日(木)12時58分46秒
現実は原則で解釈するべきか、そうせざるべきかの弁別で成立している。裏を返せば、総合的判断が求められる現場に立たない人は、いくらでも「正しいこと」を言うことができるのだ。
うんざりすることかも知れないが、この時期、内政と外政をリンクさせ、チェスのように政治を俯瞰する論評でなければ語るにまったく足りない。
国内の、足下の課題に見えることであっても、それは広く世界情勢と同時並行している。そして、世界の課題はつまるところ領土・資産、つまりは「金」である。このことについて、まずは諦観とともに、できれば晴れやかに認知しなければならないだろう。
必要な事は、清濁合わせた現実を毒の大皿のように呑み込んだうえで頭一つを雲上に出し、地底深くより未来を変える胎動を起こすことだ。
2014年02月13日(木)11時01分12秒
いつものようにグリーンスムージー、ハーフで。店にオーティス・レディングが鳴っている。店員たちは若いから、誰も彼を知らないだろうな。
それでもオーティス・レディングは泣いている。自分の恋のはかなさと、帰り来ぬ日々に。
“今”を生きると、ある意味すべては一旦虚しくなる。この束の間が過ぎ去れば、すべてはすなわち幻だからだ。
ところが、ふとその幻自体を追うことを止めてみると、今の芳醇さがこの身体の中に入って来る。即ち、幻は実体ではないことに、はっとさせられるのだ。いつの間にか幻に取り込まれていた自分に気付くと共に。
こうして虚無自体が、やはり自分の作った幻想であると知れる。
多くの者(特にこの国の現代気質)は初学の頃、この幻想の二重構造に気付かず、なんと一生を思春期止りですごす。
店ではやはりオーティスのサティスファクションが鳴り始めた。彼のようにブレイクスルーしたいものだ。