【一部公開】メルマガ「生きるための対話」vol.067<学びを促す「微妙な心」>


名越康文メールマガジン 生きるための対話(dialogue)2014年1月6日 Vol.067を配信しました!

記事の一部を無料公開します。

 

目次は下記のとおりです。

01学びを促す「微妙な心」

02 カウンセリングルーム <今週はお休みです>

03 名越マガ2013年ベスト記事

04 精神科医の備忘録 Key of Life

・垣根を越える

05 読むこころカフェ(20)

・うつろいやすい世界と仲良くする方法

06 講座情報・メディア出演予定

 

今回は巻頭コラム<学びを促す「微妙な心」>(4461文字)の一部を無料公開します。

 

 

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から!

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01 │ 学びを促す「微妙な心」

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■学ぶとは、一階層上の知に気づくこと

 

「知る」と「学ぶ」の違いについて、最近ブログやtwitterで書いたところ、いろいろと反響をいただきました。もちろん言葉の定義にもよるのですが、この2つの違いは、中学生でもわかる子は感覚的にわかっています。

 

「知る」というのは知識を増やしていくことです。一方、「学ぶ」というのは、「知る」ことを繰り返し行っているうちに、瞬間的に「一階層上の知」に気づく、ということです。

 

では「一階層上の知に気づく」というのはどういうことでしょうか。僕らの知には、階層があります。

 

お父さんから車の洗い方を教わっている子供を例に考えてみましょう。まず車体全体を水で濡らして、スポンジに洗剤をつける。それで車全体を丁寧にこすって汚れを浮き上がらせて、その後に水をかけて、洗剤を流す。次に水を拭きとってからワックスをかけ、最後に乾いた布で磨き上げる。

 

こういった<手順>や<方法>をひとつずつ覚えていくのが、「自動車を洗う」という知の、ひとつ目の階層です。ところが、それにしたがって自動車を洗うという作業を何回もやっていると、もうひとつ上の階層の「知」に自然と気づく、ということが起きます。

 

例えば、自動車をつくっているひとつひとつのパーツの材質や、それによる汚れ方の違いに気づくということ。あるいは、スポンジをこする動作をより無理のないものにしていくことによって自分の身体に生じる感覚、あるいは心地よさを知る、ということ。

 

自動車を洗う手順や方法といった「知」とまったく別の階層に、さまざまな「知」がある。そういうひとつ上の階層のことに気づくことを、僕は単に「知る」ということを越えた「学び」として捉えています。

 

 

■「学ぶ」ことで初めて知が力になる。

 

僕らはしばしば、「学ぶ」ことイコール「知る」ことだと勘違いしてしまいがちです。もちろん、「知る」ことなしに「学ぶ」ことは起きないわけですから、「知る」ことは重要なんです。しかし「知る」ことが「学ぶ」こととイコールだと勘違いしてしまうと、ときに非常に不幸な「罠」にはまってしまうことがある。だから、その点については注意を促しておきたいんです。

 

というのも、「知る」だけでは、ぼくらは決して、その知識を自分で活かすことができないからです。「学ぶ」という、一階層上の知を得ることによってはじめて、僕らは「知る」ことによって得られた知識を、有機的につなげていくことができる。

 

映画『ベスト・キッド』は娯楽作品として楽しい映画ですが、「知る」と「学ぶ」の違いを理解する意味でも、わかりやすい、絶好の教材といえます。主人公は空手の達人・ミヤギ老師の元で修行して強くなりたいと願います。しかし、ミヤギはパンチやキック、あるいは防御の仕方といった具体的な格闘スキルについては、まったく教えてくれません。

 

ミヤギが主人公の少年に命じるのは、塀にペンキをひたすら塗っていく単純作業です。「アップ、アンド、ダウン」と、刷毛で塀にペンキを塗っていく。ようやく塀を塗り終わったら今度は車のワックスがけをひたすらさせられる。

 

でも、そんな単純な動きの中に、空手の真髄に通じるようなすばらしい身体の動きが秘められている。かなりマンガチックに単純化されてはいますが、ここには修行における「知る」と「学ぶ」のエッセンスが凝縮されているように思います。

 

もしもこの主人公が直接的に「威力のあるパンチ」を教えてくれる師匠を見つけていれば、彼はもっと早く、「威力のあるパンチ」を身に着けることはできたかもしれない。でもおそらく、ミヤギが伝えてくれたような、実戦的な総合力を身に着けることはできなかったでしょう。

 

個別の知を「知る」だけでは、どうしても総合的な力は身に着かない。「学ぶ」というのは、表面的な「知る」の向こう側にある、まったく別の体系を知らず知らずのうちに身に着けてしまうという体験なんです。

 

 

■自発性によって学んだ知は、その人を疎外しない

 

「学ぶ」ということせず、「知る」だけの知識を蓄えていくことは、人間を「疎外」する可能性があります。「疎外」という言葉は哲学っぽくて難しく感じるかもしれませんが、ここでは「人間が良かれと思ってつくったり、身に着けたりしたものが、逆に人間を支配して縛るものとして働く状態」という意味で理解してください。例えば産業革命で便利な機械がつくられ、たくさんの物を生産できるようになった一方で、多くの労働者が失業したわけですが、そういった状況を「疎外」と呼ぶわけです。

 

ではなぜ、「知る」ことが「疎外」を引き起こしてしまうのか。それは「学ぶ」ことなく「知る」を繰り返し、ただ知識の量だけを増やしていくだけでは、いつまでたっても、ある知識とある知識との間の「結びつき」が生じてこないからです。大量に蓄えられた知識はずっとバラバラのまま、自分ではそれを有効活用することができない。

 

そういう状態に陥ってしまうと、蓄えた知識を他人にそのまま提供するという形でしか、周囲に貢献できなくなります。それはとりもなおさず、「あいつは物知りだから」と、他人からいわば「辞書替わり」に利用されてしまう状況を意味します。

 

もちろん、知らないよりは、知っていたほうがいいでしょう。「辞書替わり」といっても、人に貢献できるなら、貢献できないよりはいい。ただ、他人から「辞書替わり」に使われることが増えると、自分が主体的に考え、行動し、生きる時間がその分少なくなってしまうんです。その結果、さらに蓄えた知識を有効に使う機会を失ってしまう。

 

「知識」というのはそういう形で、それを大量に抱えた人を疎外してしまうことがあるんです。

 

そういう悪循環から抜け出すには「学ぶ」ということが必要です。そして、その際にもっとも大切になってくることは「自分で気づく」ということです。

 

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