【一部公開】メルマガ「生きるための対話」 Vol.063<私が病院を辞めたときの話――「自発性」に耳を澄ませて>


名越康文メールマガジン 生きるための対話(dialogue)2013年11月4日 Vol.063<私が病院を辞めたときの話――「自発性」に耳を澄ませて/「全力を出し切る」ことが弱さを断ちきる/ほか>を配信しました。

 

http://yakan-hiko.com/nakoshi.html

 

目次は以下の通りです。

 

01 私が病院を辞めたときの話――「自発性」に耳を澄ませて「自発性」に耳を澄ませて
02 カウンセリングルーム
【Q1】<主観と客観の間に張られた糸が奏でる音楽――オードリーライブから>の感想
03 精神科医の備忘録 Key of Life
・内側の空間と先験性について考える独りラーハの時間
04 こころカフェ(18)
・「全力を出し切る」ことが弱さを断ちきる
05 講座情報・メディア出演予定
【引用・転載規定】

 

 

巻頭コラムの一部を公開します。

 

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01 │私が病院を辞めたときの話――「自発性」に耳を澄ませて
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■「自分は病院を辞めるんだ」という確信

メルマガ宛に、こんなご質問をいただきました。

>>

こんにちは。
購読を始めて一年が経ちました。
34歳・女性・会社員・独身です。
生きていくうえでのたくさんのヒントをありがとうございます。

この頃、将来の事を考えます。
この先、結婚をすれば、どんな家庭を築いているだろう?
この先も独身であれば、どこに住んでどんな生活をしているだろう?
という事です。

名越先生がいつもおっしゃっているように、「今」に集中して生きていれば、将来につながると信じていますが、将来の夢や展望、となるとまったく何も見えない現状です。

名越先生は、今こうしてご活躍されているご自身を
30代の頃に想像されていましたか?

ご回答いただければ、うれしいです。
よろしくお願い致します。

>>
いいご質問を頂いたと思います。心を落ち着ければ、自然と自発性が出てきて、自分の進むべき方向がわかる。確かに僕はそういうふうに書いていますし、講演などでも、そういう言い方をしてきたかもしれません。

ただ、これだけでは混乱してしまう人がいるのも事実でしょう。いくら「今」に集中しても、客観的にみるとまったく展望が開けない、見通しが立たない状態に置かれている人もいます(というよりも、ほとんどの場合はそうかもしれません)。

ただ心を落ち着けるだけで、具体的な先の見通しが立たないのでは仕方がないじゃないか、と。

こういう疑問に対しては、ひとつの答えとしては「そんなこといわずに、まずは心を静めることに取り組んでみてください」というものがあります。そうすればおのずとわかってきますよ……と。ただ、それだけではあまりに不親切だということもよくわかります。

今回は幸い、「名越自身が30代の頃、将来の自分をどう想像していたか?」という質問をいただいたために、僕なりにこの問題について考えることができました。キーワードは「見通し」と「自発性」です。

 

■「見通し」なんてそう簡単には立たない

 

メルマガ読者の皆さんはご存知のことと思いますが、僕は13年間精神科医として勤めていた病院を辞めて、今のクリニックを開きました。「病院勤めを辞めてクリニックを開きました」というと、世間の人は「独立なんて素敵ですね」「それだけ自信があったんですね」といわれることが多いんです。

とんでもありません。僕が病院を辞めることを決めた時点では今のようにテレビのお仕事をやっていたわけではないし、クリニック経営のことも、何も考えていなかった。辞めた後どうなるかという見通しはまったく立っていなかったんです。

ただ、僕の中には「自分は病院を辞める」という確信だけがありました。妙に観念的に思いつめたり、ストレスにさいなまれて「辞めたい!」という気持ちが募っていたり……ということはまったくなく、ただ淡々と、「自分はこの病院を辞めるんだな」という確信だけがあった。

この根拠のない<確信>を、僕は「自発性」と呼んでいます。

 

……わかりにくいですよね(笑)。もう少し、僕の経験をお話しさせていただきます。

ちょうど、病院に勤めはじめて十三年目の春先だったと思います。ふと、「あれ? 俺、病院辞めるんじゃないかな?」という思いがよぎりました。そのときは、とにかくショックでした。なぜショックかといえば、僕自身、「辞めたいなあ」なんて考えてもいなかったからです。辞めたいわけでも、辞めて何をどうしたいという展望もないのに、「辞める」ということだけが、かなりくっきりと突きつけられた。

それは、例えていうなら、これからも元気で生きて行こうと思っていたのに、健康診断で「あなたの余命は○年です」と告げられたような状況です。「病院を辞める自分」はありありとしたリアリティをもって思い描けるのに、「病院勤めを続ける自分」にはまったくリアリティがない。散歩をしてふと路地に目を向けたら自分の死体が横たわっているのを見つけた。その瞬間、「ああ、俺、死んじゃったんだ」と気づく。あたかもそんな不思議な体験をしてしまったかのような「ショック」を受けたんです。

その感覚は、夏頃になるともっと強くなりましたが、辞めた後の見通しは相変わらず何もありませんでした。食べていけるかどうかすらわからないにもかかわらず、「辞める」ことだけが決まっていく。

注意していただきたいのは、いま「決まっていく」と書いたのは、あくまで僕の内面での話で、客観的な状況はそれほど大きく変化していない、ということです。職場の環境が悪化したわけでもないし、対人関係で大きなストレスが生じたわけでもない。しかし、自分の内面では「辞める」ということだけは決まっていく。それは自分にはどうしようもない、コントロールしようもない自分の中に到来する感覚だったんです。

どこかで書いたかもしれませんが、その時期に僕は一度、桜井章一雀鬼会会長に相談に東京まで行っています。辞めるというのは自分の中でほとんど決まっていましたが、それでも僕は不安だった。だから「辞めてもやっていけますかね」と相談した。雀鬼はなかなかはっきりとは答えてくれなかったけれど、夜になって確かめるようにポツッと「……先生は丈夫だよ。やっていけるよ」といわれました。

それに背中を押されて、というわけではありませんが、僕は結局、病院を辞めることにしたんです。

 

■「自己決定」と「自発性に従う」ことは違う

 

病院を辞めることは、僕にとって清水の舞台から飛び降りるような、人生における一大決心でした。ただ、ここまで述べてきたような経緯からわかるとおり、僕には自分でそれを「決めた」「選んだ」という感覚はほとんどありません。いわゆる「自己決定」をした感覚はあまりない。

季節が巡ってきて、枯れた葉が枝から落ちるように、「辞める」という事実が自然と自分のところに舞い込んできた。それは僕にとってはショックなことではあったけれど、ほかに選びようがなかったことでもある。

こういう感覚こそが、僕の考える「自発性」です。

「自発性」というと、「自分で決める」とか「自分の中で<やるぞ!>という積極的な気持ちがわいてくる」ということをイメージされる人もおられるんですが、それは僕の考える「自発性」とは違う。それらは時には重なり合うこともあるかもしれないけれど、「自己決定」というのは基本的に、客観的な情報を判断し、自分の意志で未来を選び取るものであって、僕の考える「自発性」とは違うものなんです。

もちろん僕は誰かから「辞めろ」といわれたわけではありませんから、客観的には「自己決定」したように見えるでしょうし、その言い方でも丸っきり間違いだとはいえません。ただ、僕の感覚としては、すでに決まっていた感覚(=自発性)に従った、というほうがしっくりとくるんです。

 

■網の目の方向性を感知する

僕は、ある程度以上の長い時間軸における<人生の選択>では、こうした「自発性」を大切にしたほうがいいと考えています。なぜなら……

 

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