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【一部公開】メルマガ「生きるための対話」vol.067<学びを促す「微妙な心」>

2014年01月08日(水)10時29分57秒

名越康文メールマガジン 生きるための対話(dialogue)2014年1月6日 Vol.067を配信しました!

記事の一部を無料公開します。

 

目次は下記のとおりです。

01学びを促す「微妙な心」

02 カウンセリングルーム <今週はお休みです>

03 名越マガ2013年ベスト記事

04 精神科医の備忘録 Key of Life

・垣根を越える

05 読むこころカフェ(20)

・うつろいやすい世界と仲良くする方法

06 講座情報・メディア出演予定

 

今回は巻頭コラム<学びを促す「微妙な心」>(4461文字)の一部を無料公開します。

 

 

※名越康文メールマガジン「生きるための対話」のご購読はこちら↓

 

http://yakan-hiko.com/nakoshi.html

 

から!

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01 │ 学びを促す「微妙な心」

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■学ぶとは、一階層上の知に気づくこと

 

「知る」と「学ぶ」の違いについて、最近ブログやtwitterで書いたところ、いろいろと反響をいただきました。もちろん言葉の定義にもよるのですが、この2つの違いは、中学生でもわかる子は感覚的にわかっています。

 

「知る」というのは知識を増やしていくことです。一方、「学ぶ」というのは、「知る」ことを繰り返し行っているうちに、瞬間的に「一階層上の知」に気づく、ということです。

 

では「一階層上の知に気づく」というのはどういうことでしょうか。僕らの知には、階層があります。

 

お父さんから車の洗い方を教わっている子供を例に考えてみましょう。まず車体全体を水で濡らして、スポンジに洗剤をつける。それで車全体を丁寧にこすって汚れを浮き上がらせて、その後に水をかけて、洗剤を流す。次に水を拭きとってからワックスをかけ、最後に乾いた布で磨き上げる。

 

こういった<手順>や<方法>をひとつずつ覚えていくのが、「自動車を洗う」という知の、ひとつ目の階層です。ところが、それにしたがって自動車を洗うという作業を何回もやっていると、もうひとつ上の階層の「知」に自然と気づく、ということが起きます。

 

例えば、自動車をつくっているひとつひとつのパーツの材質や、それによる汚れ方の違いに気づくということ。あるいは、スポンジをこする動作をより無理のないものにしていくことによって自分の身体に生じる感覚、あるいは心地よさを知る、ということ。

 

自動車を洗う手順や方法といった「知」とまったく別の階層に、さまざまな「知」がある。そういうひとつ上の階層のことに気づくことを、僕は単に「知る」ということを越えた「学び」として捉えています。

 

 

■「学ぶ」ことで初めて知が力になる。

 

僕らはしばしば、「学ぶ」ことイコール「知る」ことだと勘違いしてしまいがちです。もちろん、「知る」ことなしに「学ぶ」ことは起きないわけですから、「知る」ことは重要なんです。しかし「知る」ことが「学ぶ」こととイコールだと勘違いしてしまうと、ときに非常に不幸な「罠」にはまってしまうことがある。だから、その点については注意を促しておきたいんです。

 

というのも、「知る」だけでは、ぼくらは決して、その知識を自分で活かすことができないからです。「学ぶ」という、一階層上の知を得ることによってはじめて、僕らは「知る」ことによって得られた知識を、有機的につなげていくことができる。

 

映画『ベスト・キッド』は娯楽作品として楽しい映画ですが、「知る」と「学ぶ」の違いを理解する意味でも、わかりやすい、絶好の教材といえます。主人公は空手の達人・ミヤギ老師の元で修行して強くなりたいと願います。しかし、ミヤギはパンチやキック、あるいは防御の仕方といった具体的な格闘スキルについては、まったく教えてくれません。

 

ミヤギが主人公の少年に命じるのは、塀にペンキをひたすら塗っていく単純作業です。「アップ、アンド、ダウン」と、刷毛で塀にペンキを塗っていく。ようやく塀を塗り終わったら今度は車のワックスがけをひたすらさせられる。

 

でも、そんな単純な動きの中に、空手の真髄に通じるようなすばらしい身体の動きが秘められている。かなりマンガチックに単純化されてはいますが、ここには修行における「知る」と「学ぶ」のエッセンスが凝縮されているように思います。

 

もしもこの主人公が直接的に「威力のあるパンチ」を教えてくれる師匠を見つけていれば、彼はもっと早く、「威力のあるパンチ」を身に着けることはできたかもしれない。でもおそらく、ミヤギが伝えてくれたような、実戦的な総合力を身に着けることはできなかったでしょう。

 

個別の知を「知る」だけでは、どうしても総合的な力は身に着かない。「学ぶ」というのは、表面的な「知る」の向こう側にある、まったく別の体系を知らず知らずのうちに身に着けてしまうという体験なんです。

 

 

■自発性によって学んだ知は、その人を疎外しない

 

「学ぶ」ということせず、「知る」だけの知識を蓄えていくことは、人間を「疎外」する可能性があります。「疎外」という言葉は哲学っぽくて難しく感じるかもしれませんが、ここでは「人間が良かれと思ってつくったり、身に着けたりしたものが、逆に人間を支配して縛るものとして働く状態」という意味で理解してください。例えば産業革命で便利な機械がつくられ、たくさんの物を生産できるようになった一方で、多くの労働者が失業したわけですが、そういった状況を「疎外」と呼ぶわけです。

 

ではなぜ、「知る」ことが「疎外」を引き起こしてしまうのか。それは「学ぶ」ことなく「知る」を繰り返し、ただ知識の量だけを増やしていくだけでは、いつまでたっても、ある知識とある知識との間の「結びつき」が生じてこないからです。大量に蓄えられた知識はずっとバラバラのまま、自分ではそれを有効活用することができない。

 

そういう状態に陥ってしまうと、蓄えた知識を他人にそのまま提供するという形でしか、周囲に貢献できなくなります。それはとりもなおさず、「あいつは物知りだから」と、他人からいわば「辞書替わり」に利用されてしまう状況を意味します。

 

もちろん、知らないよりは、知っていたほうがいいでしょう。「辞書替わり」といっても、人に貢献できるなら、貢献できないよりはいい。ただ、他人から「辞書替わり」に使われることが増えると、自分が主体的に考え、行動し、生きる時間がその分少なくなってしまうんです。その結果、さらに蓄えた知識を有効に使う機会を失ってしまう。

 

「知識」というのはそういう形で、それを大量に抱えた人を疎外してしまうことがあるんです。

 

そういう悪循環から抜け出すには「学ぶ」ということが必要です。そして、その際にもっとも大切になってくることは「自分で気づく」ということです。

 

<続きはメルマガ本編をご登録の上、ご覧ください>

http://yakan-hiko.com/nakoshi.html

メディア出演情報を更新しました

2013年12月25日(水)12時03分11秒

メディア出演情報を更新しました。

辺境ラジオのオンエア決定!

2013年12月22日(日)12時46分32秒

12月19日に収録した内田樹先生、西靖さんとの人気シリーズ「辺境ラジオ」が、12月29日(日)22:00~23:30に、MBSにてオンエア決定!

ポッドキャスト配信は2014年1月6日予定です。

詳細はこちら

「会う」(講座・イベント)」欄を更新しました!

2013年12月15日(日)08時19分54秒

「会う(講座・イベント)」欄の公開講座情報を追加しました。

【一部公開】メルマガ「生きるための対話」 Vol.065<「妬み」を成熟の糧にする>

2013年12月03日(火)03時49分56秒

名越康文メールマガジン 生きるための対話(dialogue)2013年12月2日 Vol.065を配信しました! 一部記事を公開します。

 

目次は下記のとおりです。

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┏┏┏┏ 今週の目次
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01 「やってみてもいいかな」は強い
02 カウンセリングルーム
【Q1】先験性とは何でしょう?
【Q2】職を手にする、という感覚について
【Q3】意味の分からない笑いに困っています
【Q4】なぜ心の病はなくならないのか
03 精神科医の備忘録 Key of Life
・ミュージシャンはケンカが強い
04 私家版「門外漢の仏教論」(7)
・わからないまま、ただ「やる」ということ
05 読むこころカフェ(19)
・「妬み」を成熟の糧にする
06 講座情報・メディア出演予定
【引用・転載規定】

今回は<05 読むこころカフェ(19)「妬み」を成熟の糧にする>の一部を無料公開します。

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05 │読むこころカフェ(19)
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【「妬み」を成熟の糧にする】

この連載では、ラジオデイズ主催の公開録音シリーズ「こころカフェ」をもとに、「名越康文心理学」の最先端をお届けします。

 

今回の原稿は「こころカフェseason3 第3回「妬む」」を元に、大幅に加筆修正を加えたものです。

 

※ラジオデイズ「こころカフェ」の音源は、こちらからご購入いただけます。

http://www.radiodays.jp/series/show/43

 

※前回の記事「「全力を出し切る」ことが弱さを断ちきる」はこちら

http://yakan-hiko.com/BN1927
■「妬み」という感情はとらえにくい

「妬み」という感情は、案外捉えにくい感情です。一見、ぜんぜん妬んでいるように見えない言動が、一皮めくってみると全部妬みだったということはしばしばある。あるいは「自分は妬みやすい人間なのか、そうではないのか」と自問自答してもなかなか判然としない。自分の中の妬みの感情をうまく捉えることができる人は、ちょっと「上級者」という印象があります。

 

自分の中の妬みの感情をしっかりと捉えて、そこから自由になれている人は「大人」です。例えば内田樹先生 @levinassien って、ほとんど人を妬む、ということがありません。一緒にお仕事をしていて、本当に見事だなあと感心します。

 

内田先生は自分がしゃべっているときでも、人がしゃべっているときでも、同じように「ははー! なるほどね!」とうなづいておられる(笑)。自分が話すのも好きだけど、人の話を聴くのも同じくらい好きなんですよね、内田先生は。だから人がおもしろい話をしているときに、自分がおもしろい話をして受けているのと同じくらい楽しそうにしている。これってけっこう稀ですよね。そういう人って、なかなかいない。それが本当の大人ですよね。

 

僕も若い頃に比べればだいぶ妬みの感情に振り回されなくなったと思っているんですが、内田先生を見ると、まだまだだな、小さいことでけっこう妬んでいるよな、と思わざるを得ません。
■所属感を失くすと、妬みが出る

 

「妬み」の感情はなかなか捉えどころがないものです。じゃあどういうときに僕らは妬むんでしょうか。僕の考えでは、それは「所属感をなくしたとき」なんです。

 

所属感というのは「いま自分はここにいていいんだ」という感覚のこと。

 

例えばこんな場面を思い浮かべてください。自分がAさんと親しく話しているとき、そこに(あなたの知らない)Aさんの知人が現れ、Aさんと親しく話し始める。それだけで、心穏やかでいられなくなる。別にあなた自身が無視されたわけでも、罵倒されたわけでもないのに、自分の居場所が一瞬にして失われたように感じられる。

 

こういう状況に遭遇したことのある人は多いと思いますが、そこには何とも言えない居心地の悪さが漂います。これが「所属感を失う」という感覚です。

 

僕は若い頃、パーティなど、不特定多数の人が集まる会合がすごく苦手でした。それはやはり、安心してコミュニケーションを取れず、所属感を失うのではないかという不安が強い場だからだと思います。ちょっと大人数の飲み会とか、カラオケなんかでも、そういう感覚に襲われる人も少なくないでしょう。

 

そういうとき僕らは、自分の振る舞いが、知らず知らずのうちに場の空気を乱していないかまで不安になるわけです。こういう「所属感の喪失」が、僕らを妬みやすくさせるような気がします。

 

僕の場合、最近、こういうことがありました。

 

大阪のテレビ番組の企画で、国宝級の建物や文化財の精巧なミニチュアを紙で作るキットにチャレンジしよう、というのがあったんです。これが、作り始めたら超絶難しいんです(笑)。30分たっても規定の1/3も終わらない。

 

難易度としてはかなり難しい「3」を選んだこともおそらく裏目に出たわけですが、カメラもまわっているから途中でやめられない。このままだと収録現場のみんなに迷惑をかけてしまう、とすごく焦りました。自分がその場にいてはいけないというような、強烈な焦燥感に見舞われながらなんとか収録を追えましたが、久しぶりに「所属感を失った」感覚を覚えました。

 

興味深かったのは帰宅したあとの心の動きでした。どういうわけか、僕はそのときのことを思い出して、すごく腹が立ってしまったんです。「なんでオレにあんな難しいミニチュアキットをやらせるんだ!」と、企画を考えたディレクターを恨むような気持ちがわいてきた。もちろん、その後で「いかんいかん! あの人は悪くない!」と切り替えましたよ。そのディレクターの顔を思い浮かべて「ごめんなさい、本当は大好きです」と謝っておきました(笑)。

 

でも、不思議でしょう? 別にそんなに怒るような話じゃない。収録だって、最終的には何とかなったわけですから。でも、所属感って、それくらいちょっとしたことで、すぐに失われてしまう。そして、所属感を失うと僕らの感情はものすごくバランスを失ってしまうんです。僕らが誰かをフッと妬んでしまうときも、だいたいこういう所属感の喪失があるんじゃないか、というのが僕の仮説です。
■妬みは、瞬間的な「いじわる」として現れる

 

いままで親しく話していた人が別の人と話をはじめた。たったそれだけのことで、僕らは妬みの感情を抱きます。ただ、その時点では、「妬み」という言葉でイメージするような明確で、どす黒い感情にはなっていません。それは言葉にすれば、「心に一瞬、さびしい風が吹く」ような感覚です。自分と話していたときよりも、Aさんが盛り上がっていると感じた瞬間、フッと心に風が吹くんです。

 

そして僕らは心にそうしたさびしい風が吹くと、反射的に、ちょっとした「いじわる」をしてしまいます。相手の会話に割って入ったり、少し大きな声で「ちょっとトイレいってこようかな」と口にして席を立ったり、座の空気を乱すような行動を取ってしまう。

 

自分としてはそれが妬みの感情から来た行動とは思いもしない。しかしそれは結局のところ、友人の視線をもう一度、自分のほうに引っ張らずにはいられない、という妬みの気持ちから出てきた行動なんです。

 

これに気づける人は成熟した人です。案外、自分がそういうことをやっている、と気づくことは難しい。こういうちょっとした「いじわる」って、無意識にやってしまうということもあるし、上手にやるとちっとも嫌な雰囲気を引き起こさないこともある。コミュニケーション能力の高い人であれば、それこそそれまで見ず知らずだったAさんの知人と、それをきっかけに仲良くなってしまうことだってある。

 

「実害がないなら、別に妬みの気持ちを持つぐらいのこと、いいじゃないか」と思われるかもしれませんね。でも、そうでもないんです。無意識のうちにそういうちょっとした「いじわる」をやっていると、知らず知らずのうちに心が疲れるし、微妙に周囲の評判も落としてしまうことになる。

 

だから大切なことは、そういう感情が自分の中に生まれたり、ちょっとしたいじわるをやってしまったりしてしまう自分自身を知る、ということです。知ってさえいれば、僕らはそれをきっかけに成長することができますが、知らないままだと、いつまでたっても、僕らは自分の意志で行動しているようでいて、妬みの感情に操られたままなんです。

 

それは非常にもったいないことです。妬みの感情から距離を取ることは、その人に人格的な深みを与えてくれる。あるときは妬みと戦い、あるときは妬みと遊ぶ。そういうことができると、その人はかなり成熟していくんです。
■「妬み」を直視してはじめて、人は成熟できる

 

自分の中の「妬み」の感情をきちんと見つめることが、なぜ人間的成長につながるのか。

 

例えば政治家って、自分や他人の「妬み」をどうコントロールするかが勝負だと思うんですよ。優秀な政治家は、自分から「立候補する」とは絶対言わないし、自分からは推薦人を集めたりはしない。それは妬み、嫉妬の強烈なパワーをよく理解しているからです。

 

 

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