生を肯定するために
生きることをただ肯定する思想と、
生きることをはなから肯定する思想に対して、私は昔から生理的な嫌悪感を持っていた。
うわべの肯定には、弱さと独善とが同居していると私は思う。
私は、”群れている集団”には近づかない。それらの集団は、弱さと独善の集積地であり、
本当の意味で「生きること」を肯定したいのであれば、まずは個に戻るしかない。生を真に肯定する人のほとんどが、
精神科医の備忘録~key of Life。臨床、講演、テレビ、ラジオ……精神科医の東奔西走の日々。
生きることをただ肯定する思想と、
生きることをはなから肯定する思想に対して、私は昔から生理的な嫌悪感を持っていた。
うわべの肯定には、弱さと独善とが同居していると私は思う。
私は、”群れている集団”には近づかない。それらの集団は、弱さと独善の集積地であり、
本当の意味で「生きること」を肯定したいのであれば、まずは個に戻るしかない。生を真に肯定する人のほとんどが、
論理を超えた知は、必ずしも「論理で説明できない」わけではない。
論理でも説明可能なのだが、説明しただけではその「知」の本来の目的である、人間の認識や価値観の変容が起きないような知のことを「論理を超えた知」というのだ。
つまり知の本質とは、変容であり、度重なる脱皮である。
篠栗巡りをさせていただいて、いよいよ名越式仏教心理学の本筋の森に分け入る感じになって来ました(笑)
まずは、誰もが聴いたことのある仏教の常套句から、その文言成立のワケをいろいろ分析して行こうかと思います。
そうですね……相愛大学と名越塾で“初めを始める”ことになると思います。
私の考えでは、仏教の経文や論理は、きわめて実践的に書かれているのだと思います。
しかし、言葉には限界があります。つまり言葉は、経験自体を記録することは出来ないのです。
ですから読み解く際には、自らの経験といったん距離をとり、なるたけ客観視しなければなりません。
そうすることで私たちは、目の前の文言を、まさに「常套句として読み飛ばす」という軽薄さから解放されて行くはずなのです。
篠栗88箇所のすべての朱印ですね。ニノ滝寺にて。夜18時からクリエイト篠栗大ホールで講演します。
篠栗ニノ滝寺。
講演前に八木山地蔵とうふ店の豆乳ソフト。